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安全保障は戦時だけではない

2011-04-24

シビリアンとミリタリーの絶妙なコントロールがバランスして統治を頑丈なもの
とし、国家安泰を継続させた例としては古代ローマが代表的だが、そこまで長期
でなくとも安泰を維持するためには両者のバランスは不可欠だ。

ミリタリーコントロールの存在しない今の日本では、外敵だけでなく国内に存在
する脅威に対しても抑止力が効かなくなっているのではないか。というか脅威に
気付かなくなってしまっているのではないだろうか。

国の大事に至るかもしれないリスクを徹底的に分析し、マネジメントする能力を
常日頃から鍛えられているのがミリタリーだ。これが存在しない日本は、本来別
の主体が相当の努力と時間をもってリスクマネジメント能力を育ててこなければ
ならなかったはずである。

未曾有の大地震に大津波。
想定外という言葉が行き交うが、地震大国日本であり、海に囲まれているという
事実は紛れもなく、故に女川は三陸沖の度重なる津波経験からそれなりの「最悪
のケース」を「想定」し、コストは嵩んでも高所の設置を選んだことが今回の被
災が甚大にならずにすんだ、という話はニュースでも頻繁に伝えられている。

大震災が天災であることは勿論だが、大震災時に必ずや問題となる原発事故は人
災である。

記憶に新しい新潟県中越沖地震の際の柏崎原発事故でも「原子炉などの心臓部に
直結する設備の強度は最高のAクラスで地震に耐えられるものの、いざ被災後に
働くために用意されていたはずの「壊れたクレーン」や「燃えてしまった変圧器」
などの二次的な設備はBクラスやCクラスで、大地震の際には壊れても仕方がな
い」と言われている。
これらの調達が徹底したセキュリティ管理の下に行われていないのは明白で、今
回の東日本大震災でも、福島原発では動力コストを鑑みた設置高位が全ての元凶
だったと言える。

「TSUNAMI」は日本語から英語にそのまま利用されるワードであることはよく知
られているが、そのくらい甚大な津波被害が多発する日本なのである。想定外は
言い訳にならない。

柏崎原発事故時の反省の言には「安全上、設計思想そのものを見直さなければな
らない」とあったが、設計思想の問題ではないと思う。
「国家の安全を揺るがすエネルギー問題」として、国の安全保障思想を抜本的に
変えるべきだ。

ミリタリーが「戦争反対」だけで片付けられない問題であることを、賢い日本国
民には是非とも理解して欲しいと思うが、軍事力を持つか持たないかの議論はか
なりの時間を費やすことは目に見えているから、今の日本では現実的ではないと
して。。。

せめて「エネルギー省」を設立し、エネルギー問題を一元的に統括する必要があ
る。

日本だけでなく、今時代の全世界のエネルギー源は往々にして危険がつきものだ。
原発だけではない。火力発電所だって天然ガスパイプラインだって、常に事故の
危険性と裏腹だし、事故が起これば影響は少なくは済まされない。
派生的なリスクとしても、先の尖閣諸島の体当たり事件だって、もとを正せば
当地の潜在エネルギーへの食指が原因だ。

そのような中、原発一つとっても、その関連法令すら複数省庁が曖昧に管轄して
いる日本。供給、需要、セキュリティ、保障、、、etc、バラバラに権限を持っ
ている。今回の原発事故の保障問題でも文科省が管轄となっていることをご存じ
だろうか?なぜ?といぶかしくなる人は少なくないと思う。

エネルギーに関わるすべてのリスクを、絶大なるマネジメント力の下に集結する
べき時だ。

久々に恩師と会った。私が環境問題を仕事にするきっかけ、というか絶大なる影
響を私に与えた恩師。

第一次大戦時の仏首相・クレマンソーの「戦争は将軍に任せておくには重大すぎ
る」という言葉を彼は好む。

「原発はエンジニアだけに任せておくには重大すぎる」のはもはや自明。

ミリタリーコントロールとまでは言えなくとも、シビリアンの能力は高次に育ま
れてきていると思いたい日本の、「エネルギーマネジメント」にはもっと多くの
権限を集結させるべきである。

国家の安全保障は戦時だけのことではないのである。


鈴木敦子 ■admin ■comments (0)

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